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2020年07月27日 / 投稿者:Iwasaki 「この味がいいね」と、君が言ったから。

 

「神は死んだ、と誰かが言った。そのとき罪は、人間のものとなった。罪を犯すのが人間であることは不変だったが、それを赦すのは神でなく、死に得る肉体の主人である人間となった。」
伊藤計劃著『虐殺器官』より。

 

中世に行われた神の存在証明のひとつ
(1)神は全能である
(2)全能であることは存在することが出来るということも含む
(3)よって神は存在する

 

論理学的には完璧としか言いようがない、美しい三段論法です。
ただしこの文章で全ての人が神の存在を信じ、その威光の前にひれふすようなことはありません。
大前提の部分(1)が論証不可能な命題となっているためです。

そもそも、神というのは全能なものなのでしょうか。
全能だから神、神だから全能、全能なら存在可能、よって神は存在する。
仮に神様を全能な存在だと仮定しても、そもそも全能者というものが存在可能なのかという第二の疑問にぶつかります。

この疑問は全能の逆説という思考問題で端的に示されています。
代表的なところでは、
「全能者は”重すぎて何者にも持ち上げられない石”を作ることができるか」
という形で知られる問題です。

絶対に持ち上げられない石を作ったとしたら、全能者の全能性は失われてしまいます。
逆に作れないとすると、やはり全能者はその非全能性を示すことになってしまいます。

 

全能の逆説に対する回答としては以下の議論が有名です。
(Ⅰ)全能者は石を作る前の時点で、「全てを為す無限の力」を持っている
(Ⅱ)それゆえ全能者は絶対に持ち上げられない石を作ることが出来る
(Ⅲ)石を作った後は全能者の持つ第二の全能性「あるものにとって必要な力を決定する能力」が全能者の全能性を保つ
(Ⅳ)よって全能者の全能性は損なわれない

第一段階は「物理的な力」、第二段階は一定の力で為すことのできる範囲を変更することが出来るという「法則に対する力」という意味での全能性です。
全能性を「いかなる論理的な枠組みにも束縛されることがない力」と捉えれば逆説の存在自体を粉砕することが出来ます。
逆に上の回答のように全能者であれ論理の枠組み内の存在であると捉えると、結局その存在の自由意志を制限することになります。

少なくとも、神様は私達と同じ次元には存在しないような気がしますよね。
全世界的に起きている大きな問題の最中には、神がいるような話をしてお茶を濁すような人はいないわけですから、自明です。

 

「この味がいいね」と、君が言ったから7月6日はサラダ記念日です。
今日は7月6日ではありませんが、神なんかいなくても誰かがいいねって言ってくれるならそれだけでいい。

と、言えるような社会になってもらいたいものですが。

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

ではまた。

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