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2014年03月03日 / 投稿者:Hasegawa 堅忍不抜

ほとんどとんぼ返りでしたが、鹿児島出張にいってきました。
丁度、同県出身の西郷隆盛と大久保利通が中心の物語である「翔ぶが如く」という小説を再び読み始めたところでもありました。

元々幼馴染で無二の親友。幕末には、倒幕という目的のため、ともに命を懸けて戦い抜いた盟友である二人。明治維新後は、政治方針の違いから対立し、ついには大久保利通を長とする新政府軍により、西郷隆盛率いる反政府軍が鎮圧され、西郷さんも遂に命果てることになります。

地元鹿児島では、西郷さんは大人気である一方、西郷さんを死に追いやった大久保さんは不人気だとのこと。試しに乗り合わせたタクシーの運転手さんに尋ねてみたところ、未だに大久保さんは人気がなく、特に頼まれなければ、大久保さんゆかりの地などへの案内は一切しないとか。鹿児島中央駅からほど近くに没後100年を記念してやっと建てられた銅像も、できた当初は石を投げつける輩もいたとか。

こんなに不人気な大久保さんですが、当の西郷さんとは政治的には対立しながらも互いの信頼は最後まで続いていたとも。ウィキペディアによると、西郷さん死亡の報せを聞くと、大久保さんは号泣し、時々鴨居に頭をぶつけながらも家の中をグルグル歩き回り、
「おはんの死と共に、新しか日本が生まれる。強か日本が……」と言ったとか。
本来認め合った者同士でありながら、ともに国を憂いながらも互いの信念の違いにより対立せざるを得なかった二人。なんとも切ない。

猛烈な批判に耐え、大改革を断行した大久保さん。
座右の銘は、「為政清明(いせいせいめい)」と「堅忍不抜(けんにんふばつ)」。
前者は、政治は清く明瞭であるべしという意。大権力者でありながら私腹を肥やすことをせず、むしろ私財を国の借金に充てていたために、死後は8000円(現在の価値で約1.6億円?)の借金が残っていたとか。しかし、死後誰も取り立てようとする債権者はいなかったとも。後者は、我慢強く耐え忍んで、心を動かさないという意。この言葉を反芻しながら、日々の改革を進めていたのでしょうか。

平生は公務が忙しく、家族と食事を共にすることもままならなかったものの毎週土曜日だけは家族と夕食を摂るようにしていて、このひと時を無上の楽しみにしていたそうです。

西郷さんの死の翌年、西郷さんを支持する不平士族により、大久保さんも暗殺されてしまいます。
そのとき、荷物にはなぜか西郷さんからの手紙を忍ばせていたとのことです。

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